施設長ブログ

2024.12.24 二人の巨匠 手塚治虫と宮崎駿

二人の巨匠 手塚治虫と宮崎駿     ネトウヨ歴25年 出雲のはぐれ石

平成元年(1989年)夏 ある地方都市の映画館にて
(「魔女の宅急便」宮崎駿監督)
ウルスラ:あたしさぁ、キキくらいの時に絵描きになろうって決めたの。絵描くの楽しくってさ。寝るのが惜しいくらいだったんだよ。それがねぇ、ある日全然描けなくなっちゃった。描いても描いても気に入らないの。それまでの絵が誰かの真似だって分かったんだよ。どこかで見たことがあるってね。自分の絵を描かなきゃって。

このセリフを聞いた時、全俺が泣いた.いや全国100万人(推定)の手塚治虫信者が泣いた!

手塚 治虫(てづか おさむ、1928年〈昭和3年〉11月3日 – 1989年〈平成元年〉2月9日)享年60才.昭和天皇崩御が1月7日.まるで殉死するが如くに追って逝かれた.
実は手塚は昭和元年生まれを自称していた(逆サバを読んでいた).デビューが満17歳なので、舐められないようにしたとも.あまりにも早い死だった.
 記憶が正しいかどうか自信はないが、私は「巨星墜つ」のニュースを研修病院の深夜の手術室で聞いたように憶えている.陛下がお亡くなりになったよりも、なんだか昭和という時代が終わった気がした.

 そして私は、この年の夏、母校とも郷里とも遠く離れた地方都市に赴任した.外国でも離島でもないし大したこたあないが.
☆彡 魔女の宅急便
 あまりにも有名な宮崎駿監督のアニメだが、知らない人もいるだろう.時代設定は20世紀初頭か.主人公キキは古い魔女の血統の末裔である.あまりにも血が薄くなったためか、近代化のためか、今や使える魔法はただ一つ、箒にまたがって空を飛ぶことだけ.他はいたって現代的な普通の少女である.魔女は13才になると親元を離れ、全く知らない地へ旅立って、修行して独り立ちするという伝統というか風習がある.キキは13才の誕生日に魔女の黒い服を着て、使い魔の猫ジジを供に、箒にまたがり一人旅立った.そして遠く離れた知人もいない街に降り立ち、親切なパン屋のおかみさんなどの助けを得て、自分の唯一の魔法、「箒による飛行」を用いて宅配便(イメージ的にはバイク便)を始める.ウルスラはその過程の中で得た友人.少し年上で画家の卵の少女である.
 社会経験を積んでいく主人公.その中で些細なことをきっかけに空を飛べなくなってしまったキキ.彼女はバスを乗り継いで(ヒッチハイクだったか?)、森の奥のウルスラのアトリエを訪ねる.その時出てきたのが冒頭のセリフである.

 手塚治虫が亡くなった時、いろんな雑誌で特集が組まれた.ありとあらゆる著名人が故人の思い出を語った(注1).当然手元にもないし、なんの雑誌だったかも憶えてもいないが、一番印象が強かったのが、宮崎駿のインタビューだった.ネットで検索すると、「COMICBOX Vol.61  89年5月号 特集ぼくらの手塚治虫先生」らしい.
宮崎駿
アニメーションに関しては―これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますがが―これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。
(中略  手塚批判 延々続く そして…)

18才を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみ込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすが、ということが大変な重荷になりました。

ぼくは全然真似した覚えはないし実際似ていないんだけど、描いたものが手塚さんに似てると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。手塚さんに似ていると自分でも認めざるを得なかった時、箪笥の引き出しにいっぱいにためてあったらくがきを全部燃やしたりした。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

いろいろ因縁があっても、弔辞というのは悪い話や批判は避けるもの.その中にあって、批判が大部分を占める文章でありながら、最も心打たれたのでよく憶えていた.
 そして魔女の宅急便を見て、宮崎駿から手塚治虫への最高の「手向け」だなと感じた次第である.手塚治虫が生前あれだけ得ようと藻掻いた「日本の漫画・アニメの世界市場進出」成し遂げたのは宮崎駿だと思うと感慨深い.

(注1)その後、トキワ荘や虫プロの思い出を綴った回顧録的な本もたくさん出た.「まんが道(藤子不二雄Ⓐ)」の連載が始まったのもこの年.

(追伸)
 手塚にはとんでもない悪癖がある.ライバルを見つけると猛烈な競争心を露わにして、
「俺の方が優れた作品が書けるんだ」とそっち方面へ走りだし、何とかマウントを取ろうとする.相手は新進の作家だったりするので、「手塚は尊敬する大先生」という認識である.そこへもってきて、いきなり敵愾心をむき出しにいちゃもんを付けたりして方々でトラブルを起こしてきた.有名な話では石ノ森章太郎、水木しげる、大友克則etc. あと童話作家の松谷美代子(龍の子太郎)もその一人だと思う.その闘争心が新しい傑作を生み出す原動力になっていたりする.水木しげると白戸三平をミックスしたような「どろろ」など.
 宮崎駿にかんしてはまずスカウトだった.宮崎駿、高畑勲、大塚康生(注2)の三人.後にルパン三世(1971)、アルプスの少女ハイジ(1974)、日本アニメーション(未来少年コナン(1978)、世界名作劇場:母を訪ねて三千里(1976)、赤毛のアン(1979)など)、ルパン三世カリオストロの城(1979)、スタジオジブリを作っていく彼らが東映アニメ『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)を世に送り台頭していく頃、「芸術家として自由にアニメを作ってほしい」と虫プロに招いたが、「おれたちゃ労働者だ、芸術家なんてもんじゃねーよ」と断られ(高畑は東映動画労組副委員長、宮崎は書記長)(超有名な話なんだが、辻真先の本か山本暎一の『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』(1989)だったか)
 カリオストロの城の少し前、あるプロデューサーが宮崎を手塚に売り込みに行った.
手塚:あぁ~宮崎君というのは、素晴らしい!僕もぜひ応援したい!(宮崎が映画化する企画について)ああ!あれを映画にするのか!僕も良く知っているよ。じゃあ、君がプロデューサーで、宮崎君が監督だ。わかりました!では、私が総監督をやりましょう!(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ より)
 手塚は「カリオストロの城」の感想を求められて、「まだ観てないんだ」と答えたことがあった.しかし、スタッフのタレコミ情報では、すでに何度も真剣に見ていたという.
 アニメになる前のコミック「風の谷のナウシカ」は月刊誌アニメージュに連載されていた.「ナウシカ」は手塚治虫漫画賞の最終候補になるが、審査員長・手塚の「素晴らしい作品だが、まだ物語が完結していないから授賞できない」と鶴の一声で取りやめになった.しかし完結前に受賞した作品はいくつもあったのだ.手塚はライバルと認めた若手にこのような意地悪をしばしばやってきた.しかも、本人に自覚がないらしい.だから若手には、手塚の意地悪を「一人前と認められた」通過儀礼と見る向きもある.
(注2)宮崎駿、高畑勲、大塚康生、この三人組って何気にルパン三世に似ている.ルパン=宮崎駿、気まぐれな天才.石川五右衛門=高畑勲、堅苦しい侍=労働組合副委員長.次元大介=大塚康生、寡黙な仕事人.

魔女の宅急便(1989)
https://www.ghibli.jp/works/majo/

手塚治虫への尊敬と失望の想い 宮崎駿と手塚治虫の知られざる関係
https://fc0373.hatenablog.com/entry/2021/08/28/153118

手塚治虫が宮崎駿をライバル視!? ジブリ・鈴木敏夫が語る二人の素顔
https://dot.asahi.com/dot/2016091300158.html?page=1

アニメ大国 建国紀 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち(sample)
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